契約書の作成は弁護士の重要な役割の1つです。取引における合意内容を書面化して、後に紛争が生じないようにするために契約書は作成されます。契約書のチェックや作成を依頼されたとき、私は、「契約の相手方と信頼関係があるのだろうか。」と考えます。
山岸俊男「信頼の構造」(東京大学出版会)という本には次のように書かれています。
「相手の意図についての情報が必要とされながら、その情報が不足している状態を、社会的不確実性の高い状態と定義することにする。」(14頁)「信頼が必要とされるのは社会的不確実性の大きな状況であり、逆に言えば、相手に騙されてひどい目にあったりする可能性がまったく存在しない、つまり社会的不確実性がまったく存在しない状況では、信頼は果たすべき役割をもたない」(15頁)
契約書の作成という仕事は社会的不確実性を前提として成り立っています。取引相手の考えがわかるのであれば、敢えて契約書を作成する必要はないからです。
アメリカは契約社会と呼ばれ、数多くの弁護士が必要とされています。その背景には社会的不確実性の高さがあるのでしょう。相手の考えがわからないのであれば、人々は疑心暗鬼になり信頼関係を築くことが難しくなるようにも思われます。
ところが、山岸先生の本には次のような意外な調査結果が紹介されています。
「日本人よりもアメリカ人のほうが他者一般に対する信頼感が高い」(91頁)
「アメリカ人の方が日本人よりも、他者一般に対する一般的信頼のレベルが高いだけではなく、親しい関係における特定の相手に対する信頼(人間関係的信頼)の水準も高い」(97頁)
社会的不確実性の高さと高い信頼感という一見相矛盾する状況が併存しているアメリカ社会において、契約が重視されていることを私達はどのように理解すればよいのでしょうか。
あくまで私の独自の見解ですが、契約という行為は取引当事者相互の信頼関係を抜きにしては成り立ちにくいのです。互いに不信感を抱きあっている者同士が、相互の合意点を探りこれを書面化して、その後の取引関係を続けることが実際にできるのでしょうか。おそらく無理でしょう。信頼できない者との間で話し合いをして一致点を見出し、その後も人間関係を維持することなどできるはずがありません。
ですから、私は契約書を作成する際にも取引当事者間の信頼関係が不可欠だと考えています。取引をする際に相手方に(交渉術を駆使して)対抗するとか、相手よりもうけてやる、といった考えでは合意を形成することが困難となり、結局はお互いにとって不利益な結果となりかねません。
最後に、山岸先生は次のようにも言っています。
「人間の社会には意識的に自己利益を追求しない人間――信頼に値する人格の持ち主や、他者一般を信頼する人間――の方が、意識的な自己利益の追求者よりもうまくやっていける環境が存在している、という点こそが筆者の主張なのである。」(88頁)
(丹波市 弁護士 馬場 民生)