現在、法曹資格を持たない方が弁護士になるには2つの途があります。法科大学院と予備試験です。法科大学院を卒業するか予備試験に合格した上で、司法試験にも合格し、さらに、二回試験という実務的な内容の試験にも合格して、お金を払って弁護士会に登録してやっと弁護士になれます。

私は社会人を経て、法科大学院に入学し、いくつかの試験に合格して弁護士になりました。幸いすべての試験を一回でクリアできたものの、会社を辞めて司法試験に臨むプレッシャーは相当なものでした。

最近は法科大学院の入学者が減る一方で、予備試験の受験者が増加しています。ネット上に溢れる多くのご意見を拝読しながら、私自身の法科大学院での経験をまとめておこうと思い立ちました。

私が某大学の法科大学院を選んだ理由は単純です。(現在の)妻と住む予定だったS市から一番近くにあること(通学で時間を無駄にしたくない)、私立なので実績をあげるために必死になって受験指導してくれるに違いないと思い込んだこと(国公立の学校しか在籍した経験がなかったので私立への憧れもあった)の2つです。要するに合格への一番の近道と思い込んだ途を選んだわけです。

もちろん他にも法科大学院を選んだ理由はありました。大学の雰囲気とか、講座の数とか、授業料半免という甘い誘い(素直に嬉しかった)とか、いろいろと考えました。でも、結局は合格に近いか遠いかが決定的に重要でした。弁護士になれないと人生が狂いますから当然ですよね。

法科大学院(ちなみに2年コースと3年コースがあり、私は3年コースです)に入ってまず驚いたのが、同級生から「野球をしよう!」というお誘いがあったことです。お誘いは嬉しいのですが、私にとって司法試験の勉強とは寸分を惜しんで必死でするものでした。ですから、法科大学院に入学して、いきなり遊び(息抜き?)の話が出てきたことにかなり戸惑いを覚えたものです。

次に驚いたのが、入学者のほとんどが司法試験の予備校で受験勉強をしていたことです。私はというと、基本書を数冊買い込んで読んでみた程度でした。右も左もわからない私は、先生の質問にすらすらと答える同級生の姿に感嘆したものです。

先生方の発言にも驚かさられました。予備校に敵対的発言をされる先生方が多い上に、「受験勉強をするな。」「記憶をするな。」と理解不能なことを話される先生もおり、私は戸惑いました。後になって予備校教育の弊害なるものが問題になって法科大学院が構想されたと知り、先生方の発言も多少は理解できるようになりました。ともあれ、当初、何も知らなかった私は困惑するばかりだったのです。

多くの同級生は、予備校が作成されている論証パターンと呼ばれる回答例を覚えていました。先生方の多くは論証パターンが書き連なれた回答に高評価を与えていました。予備校に通うお金もなく、完全に我流の回答を書いた私に「文章の書き方が全くなっていない。」と怒り心頭だった先生もおられました。「それなら文章の書き方を教えてよ。」と思いましたが、多くの先生方は文章の書き方までは教えてくれませんでした。それどころか、「授業は誰がしても同じ。」と発言した生徒に、「そうそう。」と賛同した先生もおられました。この対話を聞いたとき、私は思わず「だったら何のための授業なんだ。授業料を返せ!」と言ってしまいました。

入学して1年間、私はただ必死で基本書に書いてあることを覚え、試験のときに思いつくままに文章を書くばかりの日々でした。ただ、1つ楽しかったことがあります。模擬依頼者を使った法律相談の訓練があり、乏しい法律知識で懸命に回答したり、カウンセリングの考え方を学んだりしたのがとても楽しかったです。この訓練は弁護士になった今でも役に立っていると思います。

2年生になると私の成績が急上昇しました。理由はよくわかりません。試験の設問が高度化し、予備校の論証パターンを書くだけでは対応できない問題が増えたからかもしれません。

いずれにせよ私は必死でした。経済的にも余裕があったわけではありません。買う本はできる限り厳選し、科目ごとに集中的に読む基本書を決めることにしました。予備校に行くお金はありませんでした。でも、ある程度は予備校が発行している本も買うようにしました。予備校の本には授業では丁寧に説明されない学説の分類がなされており便利でした。

でも、論証パターンは最後まで利用しませんでした。これは結果的には正解でした。なぜなら論証パターンに固執した受験生は容易に合格できていなかったからです。

私は法科大学院の2年生になり、あることに気づきました。先生方は予備校を敵視するかのような発言をしている。でも実は、予備校で学んだことを前提に授業をしている。その方が先生方も楽なのだ。予備校を前提とすれば、学説の整理も、すべての分野を授業で教える必要もない。

事実、予備校本を参考にして授業をしている先生もいました。先生の解説する考え方が私の基本書のどこにも書いていないので、「どの基本書に書いてあるのですか。」と質問すると、先生は「予備校の本に書いてあるよ。」と答えたのです。

ある授業で事前に配布された論文に書かれている内容とは違う回答をした生徒に、「そうですね。」と先生は答えました。私は不思議で仕方がありませんでした。後で予備校の本に生徒の回答と同じ回答が「正解」とされていることを知りました。

予備校の論証パターンと同じ古めかしい文体で書くこと命じる文章を、生徒に公にした先生もおられました。法科大学院に入学するまで聞いたことも見た事もない文体です。

な~んだ、先生方って予備校が大好きじゃないか。そう思って、ものすごく気が抜けました。私にとっては予備校云々はどうでも良い話でした。早く合格しないと!

素晴らしい先生もおられました。論証パターン丸写しで自分で考えていない回答に厳しい評価をし、回答者の論理力と文章力を見抜かれる先生が少数ではありますがおられました。能力の高い先生方のおかげで私はいくつかの科目について自信を持つことができるようになりました。

3年生の夏になり、司法試験の受験まで1年を切りました。予備校に通い詰めたあるベテラン受験生から短答式の重要性を教えられたこともあり、私は夏休みに短答式の勉強を始めました。必死でした。予備校通いをされている生徒と比べ、私の短答式の成績が著しく劣っていることを勉強会を通じて痛感させられていたのです。天才的な実務家の先生は「基本書を読めば短答式の勉強なんてほとんど必要ないよ。」と話されていました。私は天才でないと自覚していましたし、先生方の話は事実とは限らないと法科大学院の経験でわかっていましたので、私は短答式の問題集を買い込み必死で解き始めたのです。

私の集中力は極限まで高まっていました。短答式の勉強に私は没頭しました。こうして知らないうちに体に過度なストレスを与え、私の体は限界に達しました。ある日、ゲップが止まらなくなり、胃酸の激しい逆流で勉強ができなくなったのです。胃潰瘍、十二指腸潰瘍、逆流性食道炎の診断でした。ピロリ菌はいませんでした。受験勉強の過度なストレスが原因でした。大事な大事な3年生の夏休みに私はしばし休養せざるを得なくなったのです。「不合格」の文字が私の脳裏を横切りました。

大学に顔を見せなくなった私に、ある同級生(といってもかなり年下です。)から電話が来ました。「○○先生の演習の申し込みがそろそろ締め切りですよ。休養中だから知らないかと思って。」と彼は教えてくれました。その先生の演習を履修するつもりだったことを私から聞いていた同級生が連絡をくれたのです。彼の気配りには感謝の気持ちで一杯になりました。

夏休みが終わりに近づき、私は復帰しました。体調は万全ではありませんでした。短答式の模擬試験を受けたら、腹痛で倒れそうになりました。それでも勉強を止めるわけには行きません。人生がかかっているのですから。

3年生の後半、研究室で隣の席だった同級生と生協で食事をしながらバカ話をするのがとても楽しかったです。この同級生がいなかったらもしかすると私の心や体は折れていたかもしれません。ですから彼は恩人です。

私に自信をつけさせてくれた先生方、法律相談の訓練や専門分野の講義で弁護士の仕事の楽しさを教えてくれた実務家の先生方、年上の私に気配りしたり話し相手になってくれたり勉強会に誘ってくれた同級生のみなさん、法科大学院で出会ったみんながいなければ私は弁護士にはなれていなかった。

司法試験の当日、病気が完治していなかった私は腹痛に襲われました。「倒れても良い。腹痛は放っておこう。」と決心して問題と格闘し続けました。

受験前夜、法科大学院のある実務家先生から励ましの電話をいただいていました。嬉しい気持ちになり、心が少し落ち着いたのを今でも覚えています。

私の妻は「合格できなかったら居酒屋を経営しよう。」等と言っていました。空気の読めない私は妻の言葉を真に受けていました。実は妻が私に過度のプレッシャーがかからないように気を使ってくれていたことに、大分と後になって気づきました。駄目な夫です。

私は2回受験して合格できなかったら諦めるつもりでした。ここまで勉強して2回も合格できないのであれば「才能がない。」のは明らかだと思っていたのです。受験回数の制限(当時は3回まで)撤廃を主張する同級生の考えが私には理解できませんでした。今でも受験回数の制限撤廃を求める理由が理解できていません。

こうして司法試験の合否発表の日が来ました。発表時間から何時間も遅れて発表会場に着きました。落ちたときに他の人と会いたくありませんでした。会場に向かう途中では宝くじ売り場が目に入りました。「宝くじを買って、不合格だったら駄目駄目人間だな。合格していたら買おう。」と考えた記憶があります。

合格していました。嬉しさのあまり何も見えなくなっていました。妻やお世話になった方々に電話やメールをし、天にも昇る気持ちで帰りはじめました。ふと気が付くと発表会場にくる時は目にすることのなかった大河が目の前を流れていました。浮かれていて道を間違っていたのです。我に返った私は道を引き返し、家路を急ぎました。宝くじは買い忘れました。

会社を辞め、弁護士を目指すという無謀な試みはどうにか達成されたのです。これだけで十分です。

(丹波市 弁護士 馬場民生)